事務局ブログ

パイドパイパーに
 ついていったら
 (岩永正敏)

3月11日まで、
  3月11日から。

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 3月11日まで、3月11日から。 

私と3月11日

伊藤雄三(貿易会社経営):L.A在住。「MOC 1」に手記を掲載。
 
 
3月11 日、つまり私の住むLAでは3月10日(木)の深夜は、
いつものようにただ何となくぼんやりカウチに横になりながらCNNのニュースを見ていた時だった。
突然画面が変わり飛び込んできたのが、日本の津波の生々しい映像だった。
初めはSFX videoでも流れたのかと思ったが、解説者のシリアスな語調が
今現実に日本の北部(Northern Japan)でおきている津波映像だとの説明を聞いて、
ただ言葉を失いその画面を呆然と見てるだけであった。
現実をあまりにも超越していて、ハリウッド特撮映画に慣らされてしまった自分が、
「これもそうだろう」という錯覚を起こしたのも当然だったのかも知れない。
 
この夜はチャンネルをやたら回しながら日本からの地震と津波のニュースを見ているうち、
結局翌11日の朝まで一睡もできずに仕事に行った。
 
会社でも従業員達と日本の話題でもちきりになった。
あれだけの津波だったとしても、日本の地震・津波の警報能力は世界でも高水準なので多分、
被害はあっても予想より犠牲者は少ないだろうというのが我々の共通意見で、
その後2万人以上の犠牲者・行方不明者が出るなど、この時は想像もつかなかった。
 
そうこうしていると、全米の取引先からひっきりなしに電話とメールが入り、
私の家族の安否や日本の顧客の様子、さらにこれからの日本はどうなるのか?
今もらっている日本向けの注文は大丈夫か? キャンセルされるのではないか?など、
ありとあらゆる対応に追われた。
 
その後、更にビッグニュースとなって全米を震撼させたのは福島原発が爆発寸前だとの報道で、
日本はその放射能で全滅するのではという風潮がまことしやかに広がった事である。
「日本にいるアメリカ人達に一日も早く日本を離れるよう在日米国大使館に通達した」
といったニュースも流れ、いったい日本では何が起こっているのかと混乱している我々日系人は、
Negativeな情報ばかりが流れるマスコミにも脅かされ、
日本への国際電話もオーバーヒートでまったく通じず、ただおどおどするしかなかったのである。
 
電話がやっと途切れ途切れに開通し始めたのは震災から2~3日後であった。
メールも少しずつ回復し始め、
やっと日本の身内や取引先の安否を確認できたときは本当に安心した。
そのころからこちらのCable TVの日本語放送でNHK ニュースが24時間無料で見られるようになり、
我が家でもその恩恵を受け、毎日のように仕事から帰るとテレビに向かい、
朝方まで日本のニュースばかりを見ていた。
震災、津波の生々しいライブ映像、被災者救助、
とりわけ枝野官房長官の原発関連のコメントなどは喰い入るように見ていた。
 
しばらくするとこちらの民放でも全局でスポンサーなどの
“Save Japan”キャンペーンが目立つようになり、スーパーの前などでも募金が始まった。
ハリウッド俳優や人気歌手が競ってテレビに出て寄付を募るようになり、
関連グッズのT-Shirtsなどの販売も目立つようになった。
 
こういう時、アメリカ人の対応の早さと心の深さを感じる。
押し付けもワザとらしさもなく当然のような自然さで即座に広がっていくのである。
これはアメリカ人がもともと持っている慈悲の心だろうと思う。
簡単にGunを入手出来てしてしまう彼らの性格とはあまりにも対照的なのが興味深い。
 
いずれにしても日本での米軍の協力と迅速な対応、
そのパワーには本当に感謝の気持ちで一杯になる。
先ほど書いた24時間の日本語放送もそうだが、
さらに日本への国際電話も1カ月間無料になった事も、
一体アメリカ人はどこまでお人好しで太っ腹なのかわからなくなるくらいであった。
とにかく感謝である。
もちろん近隣の韓国、台湾、中国その他アジア、世界中からの援助協力にも感謝、感謝である。
 
それら世界中からの援助、ボランティアを見るにつけ、
自分自身にも何かすべきではないか、といった自問自答するようになり、
寄付という目に見えない事だけでなく、実際に被災地に行き、
その現実を自分で体験すれば自ずと何か見つけられる筈だと思い立ち、ボランティアを決意した。
しかし、個人ボランティアを受け付けてくれる団体などその頃はどこにもなく、
私のようにアメリカからグループを募っての参加など容易ではない。
いろいろ調べたところ岩手県遠野市にある“まごころネット”というボランティア団体が
個人ボランティアを受け付けているのをネットで知り、早速そこに申し込み書を出すことにした。
 
ただ、ボランティアを思いたった4月初旬は、いつ行けばいいのかやらさんざん迷った挙句、
ゴールデンウイークが終わった辺りがボランティアも少なくなり、
私のように個人で参加しても迷惑はかからないだろうとなり、
日程を5月30日から6月4日までと決め、その間のバケーションと飛行機の手配をした。
しかし結局、エンジントラブルでLAからのフライトが成田に着いたのが、一日遅れの5月29日の夕方。
その日は東京で1泊、翌日遠野市に向かい、
センターでの手続きとオリエンテーションを受けて、翌31日からボランティア活動となった。
 
このセンターで驚いたのは、思いの他用具類が揃っていた事だった。
それも無料または貸し出してもらえ、持参したマスク、タオル、軍手、ゴム手袋、
鉄版入りのソール、ジャケット、薬などほとんどがセンターにもあった。
おそらく震災から3カ月近くにもなると余りが出る救援物資もあるようだ。
もっと細かく被災者のニーズを考える時にきている。
 
5月31日朝7時15分にラジオ体操(懐かしいNHKのラジオ体操第一)。
この年でも覚えているもので、50年ぶりのラジオ体操は子どもの頃のようにはいかないものの、
何とか体が動いてくれたのは嬉しかった。はた目には不恰好だったに違いないが……。
 
そして7時半の朝礼の後はボランティア先のグループ分けである。
それぞれ希望の行き先と仕事を選んでリーダーの上げるプラカードの前に列になり、決定。
まるでどこかの斡旋業者に連れて行かれる日雇い労務者の風景に似ている。
でもこれはあくまでもボランティア活動なのだ。
 
初日の午前中は釜石市近郊の箱崎町という漁村で、
旧小学校の机・椅子などの洗浄と片づけに決まった。
我々が乗ったミニバンがのどかな山間を抜けた途端、
いきなり目の前に入ってきた光景は今でも目に焼きついている。
それは3月10日の深夜、LAの自宅のテレビで見た光景がまだそのまま残っていたことだった。
ボランティアに行った人全員が口をそろえて言う“言葉が出ない”という印象そのままである。
 
さらに私はその光景を見て、ため息と同時に胸にこみ上げる重いものを感じた。
それは自然の恐ろしさ、それに対して人間はまったく無力であることである。
ここまで痛めつけられてしまうと、人間はもうなすすべもなく、無抵抗のまま諦めるしかないのか?
神社、仏閣、教会は一体何のためにあるのか?
なぜ人はそこに通うのか?
神の存在とは何なのか?
不謹慎にも、膨大な瓦礫と全壊した家屋、無残に潰された車などを目の当たりにして、
「ショック」という表現では小さ過ぎるくらいの、もっと大きなとてつもない力に潰されたような、
とても表現できないショックと怒りを覚えた。
この日の午後は岩手県大槌町で民家の庭の泥出しと瓦礫掃除で一日が終わった。
 
翌6月1日はまた箱崎町へ行き、
4階建ての2階まで水に浸かった旅館の家具の運び出しと瓦礫の片付けであった。
旅館の瓦礫といってもほとんど水に浸かった野菜や果物、魚など腐った残飯で、
その悪臭に吐き気との戦いであった。午後は同じ町で農家の畑の瓦礫の片付けをした。

 
このボランティア活動で主催者側から特に注意されたことがある。
 1. 「やってあげる」という気持ちを捨てて、「やらせてもらう」という気持ちで作業をする。
 2. 写真をやたらと撮らない、撮るときは被災者に必ず承諾を得る。
    (あくまでボランティア活動であり観光ではない)
 3. 被災者の方たちに「頑張って下さい」とは言わない。(彼らは精一杯頑張っている)
 4. 被災者の方たちにやたらと話しかけない。(好奇心で来てるのではない)
 5. それぞれの作業を安全に、決して無理はしない。ノルマもない。
 
幸いこの箱崎町の農家のお母さんとは話をする機会があった。
たまたま一緒に彼女の家の畑の瓦礫を片付けている作業中に、
「どこから来られたんですか?」と尋ねられ、「ロスから来ました」と答えてから話が弾み、
地震の時の様子や津波の生々しい様子などを少しずつ聞かせていただくことができた。
 
3月11日の地震の時、彼女は裏山で野良作業をしていたところ、
轟音とともに地震がおき、周りの栗の木が地面に引っ張られるような感覚になり、
激しい揺れで杉の木の花粉が天に登るように舞い上がった。
30分ほどして海の方から大きな爆発音が2回したと言う。
彼女は以前、町の長老が「津波が来るときはその前に海鳴りがする」と言っていたことを思い出し、
その音だったと後から分かったという。
 
地震後すぐに漁師をしている息子さんの携帯に電話をしたがつながらなかった。
そのとき彼は津波が来るとの情報に急いで船を沖合いに出したそうだ。
その間、消息はわからずお母さんは2日間生きた心地がしなかったと言う。
その息子さんも2日後に無事帰って来た。
彼は沖で一夜を明かして帰港しようとしたが、瓦礫のため自分の港につけられず、
別の港を探して船を着け、一日中歩いて帰宅したのだという。
 
この村に280戸あった家は、このお母さんの家を含めた高台の15戸だけが残ったそうだ。
地震後にこの村は、津波で道路が波にさらわれ、救援物資も届かずに孤立状態となり、
一週間以上家に残ったわずかな食料と水で、
非難した近所の人たちと一緒に耐え忍んだとのことである。
こういった話は、被害を受けた家族の分だけ何千何万あると想像できる。
 
これからの大きな問題は、残されたこの瓦礫撤去とその処理、
そしてこの土地をどう活用するのか。
とにかく膨大な問題が残されていることをこの現場で更に実感した。
そしてこの被災者の方達はどのように自分たちで復興していくのか。
彼らのモチベーションをどのように高めるのか。
それをサポートするのも、物資やボランティア作業以外で、
我々ができる今後の大きな任務のように思う。
壊れた店を修理してやっとパン屋を再開した被災地で、
パンを配給するようなことはしてはいけないのである。
 
一方、復旧・復興と簡単に口にする裏で、
復興するにもすべてを失くした人にどのようなサポートが出来るのか。
これから復興するにはあまりにも歳老いた人達の多い箱崎町のような村では、
そのモチベーションをどう高めてやればいいのか。それも大きな問題だ。
 
(「MOC 2」寄稿全文)
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