
母が遺したこと(9) 2012.08.17
「革命かあさん」と呼ばれていたことを母はしばらく知らなかったようで、
ある日僕に「革命? なんやのそれ?」と訊いてきた。
当時、母の年代の人たちにとって「革命」とは、
戦後の一時期、日本共産党がとった過激路線(山村工作隊や火炎瓶闘争)のことか、
そのころの中国で展開されていた「文化大革命」をイメージさせる言葉でしかなかった。
いずれも、大衆運動を標榜してはいるが、いささかひとりよがりの姿勢が伺え、
一般的には、あまり良くは思われていなかった。
そんなこんなで、「革命」の呼称は使用禁止になったが、母の姿勢は変わることなく、
デモの日には、餅箱(正月に切り餅を保存するための木箱)いっぱいに
にぎり飯をつめて運搬部隊に渡してくれたり、
真夜中にどろどろになって戻ってくる僕たちに、風呂を沸かしておいてくれたりした。
ある晩家に戻ると、「大学の○○先生の奥さんという人から電話があったよ」と母。
当時、学校では「大衆団交」に明け暮れる毎日で、
追及されるほうも、するほうもへとへとになっていた。
「先生本人からかけてくればいいのに、うちの主人をこれ以上追い込まないで下さいだって。
先生から息子に直接仰っていただけますかっていっておいたから」
しかし、その後○○先生から僕に声がかかることはなかった。
僕の通っていた大学は、どちらかというと軟派な学校に数えられた部類だったが、
そんなところにも大学闘争は起こった。
いや、むしろそれまで大学当局を信じて来た学生が多かったから、
一旦大学が馬脚を現すと、裏切られたと思う人も多かったのかもしれない。
当時10000人の在学生で、2000人を超えるデモの隊列が組まれることもあった。
学生ばかりでなく大学院生や、助手、そして職員といったオトナも隊列に加わってきた。
女子学生がカラフルな格好で、フランスパンを持って参加したり、
駅までのデモの間に地元の商店街の人たちから、びっくりするほどのカンパがよせられたり、
学生もウブなら、街もウブだった。
それと、もうひとつ僕たちのグループは、占拠した校舎の一部を使って
近所の子どもたちが遊びに来られる学童クラブのような場をつくっていた。
そこに、商店街のチビたちもたくさん来ていたのだ。
それまではいかめしい守衛さんが門のところにいて、近寄りがたい所だったのに、
そのときは、芝生でバッタをとったり、お姉ちゃんたちがかっていた犬と戯れていても
誰も文句を言わないのだから、チビたちにとっても解放区のはずだった。
当時、全共闘の学生が唱えていた「大学解体」という言葉を僕が母に説明したときに、
そんな話をした記憶がある。
「大学に行きたい人は、誰でも入れるというのは、理想だけど、
先生はあまり頼りになりそうじゃないし、そういうことを本気で進める人はいるのかねぇ」
という母は、その昔、僕たちのために「高校全入運動」に参加したひとりとして、
その結果が招いた功罪を
「一時の親のエゴだったからかもしれない。私も含めみんな、自分の子どもが入ったら、
後はしらんぷりだったからね。理想を唱えるなら、やり続ける覚悟もいるんじゃないの」
と釘をさしてきた。
母の心配どおり、やがて僕たちの脳天気な活動は、卒業、就職といった現実に直面し、
自分たちこそ、解体することになった。


母が遺したこと(8) 2012.04.23
1965年になると、ベトナムでのはかばかしくない戦況に業をにやしたアメリカは、
とうとう北部ベトナムへの爆撃を開始した。
それまでは、サイゴンを首都とする南ベトナム国内の内戦に介入していたのだが、
南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)のねばり強い戦いに、手を焼いて、
その背景にあった、ハノイを首都とする北ベトナムをたたくためにだ。
それから、1975年のサイゴン陥落までの10年間、アメリカはナパーム弾で焼き尽くし、
枯れ葉剤を撒き人をも含む動植物の生存基盤を断とうとした。
(日本が太平洋戦争でB25やB29の空襲を受けたのは、3年間でしかない。
ベトナムの人々はその3倍以上の年月、B29とは比べものにならない機能の
B52の爆撃にさらされて、それでも勝った)
その10年間、日本は、アメリカ軍の兵站を引き受け、
駐留基地から野戦病院まで、この侵略戦争を支えた。
当然にも、こうした日本政府の姿勢には反対の人びとも多かったし、明確な反対ではないにしろ、
ほとんどの人が戦争に巻き込まれそうという不安感を抱く状況だった。
母もそうした気持ちだったらしく、
親父にかくれてデモに行っているらしい息子に「気をつけなさいよ」という時もあれば、
「大変だけど、がんばりなさい」と送り出してくれることもあった。
そして、時々、父と母と僕の深夜討論会が持たれ、僕は父と話す機会を得た。
僕が大学に行き始めて2年目、日本中の大学で学園闘争がおこりはじめた。
僕たちは、ベトナム反戦活動と学内活動の二正面作戦をするしかなかった
それまで、学問の府として、権力からも一定の自由を持ち、
それを誇っていたはずだった大学が、実は、時の政治権力の補完機関だったことは、
日本大学の総長が学生に学内民主化を約束し退陣を表明したにもかかわらず、
総理大臣佐藤栄作のひと言で、たちまち居座って、再び学生の弾圧を始めたことでもわかる。
もう、遙か昔のことかもしれないが、いったん権力の座に着くと、
それまで、いかに耳障りの良いことを言っていても、
すぐに権力を振りかざして、たいていの約束を反故にするという支配の構図は、
今回の東日本大震災での原発事故の扱いをみても情けないほど変わってはいない。
僕たちの世代がなぜ、全共闘なんてものを始めたのかは、べつの機会にゆずるが、
1968~69年ごろ何らかの形で学生運動をしていた者の一人としての実感は、
僕たちが、そういう方向に行き着いてしまうほど当時は
権力の貌があっちこっちに見え隠れしていた時代だった
そんななかで僕の家は、政治組織など持たないノンセクトの僕の仲間たちにとって、
一種の保護区のような場所だった。
夜遅くまで会議をしたり、朝は、そのままみんなで揃って出かけるなど、
今で言うBED&BREAKFASTのような所になった。
もう、父も反対しなかった。
僕たちの稚拙な議論は、きっと聞こえていたはずだが、馬鹿にすることなく、
僕の友人たちも交えた話し合いに参加することさえあった。
戦争に行って、重傷を負い、捕虜になって戻ってきた父から、僕たちは、
どうして戦争になってしまったのか、そして、天皇のひと声で、なぜやめてしまったのかを訊いたりした。
選挙となると、社会党か民社党のどちらかに投票するぐらいの政治行動しかしない
サラリーマンの父だったが、当時の権力者たちのご都合主義的な対応についてはやはり批判的だった。
おそらく、そうなったのは、みんなで話し合う場づくりをしてくれた母のお陰だろう。
僕の友人たちは、いつからか母に「革命かあさん」の称号を与えてくれた。

母が遺したこと(7) 2012.03.13
今でも、料理のまねごとをしたり、茶碗を洗ったりするたびに、
あぁ、こういうことが比較的に好きで苦にならないのは、母のお陰だと思うことがある。
「男子厨房に入るべし」というのが母の方針で、
豆のサヤ剥きから、素麺のだしとりまで、手伝いながら教わった。
だから、母が留守をしたときなどは、弟と二人であれこれつくった。
もちろん、失敗もあったが、それを食べながら加減というものを僕は知った。
「婦人公論」(月刊)と「暮らしの手帖」(季刊)が母の愛読誌だったが、
どちらも料理のページは僕も楽しんでいた。
特に、「暮らしの手帖」連載の「おそうざいふう外国料理」の村上信夫の洋食メニューを眺めるのが好きで、
一度「帝国ホテル」なるところに行って食べてみたいと思っていた。
もちろん、大阪の片田舎に住む小学3年生が勝手に抱く夢でしかなかったし、
いまでもそんな暮らしはしていない。
ただ、どうして洋食に興味をもったのか?
今思い返すとどうも原因は「長崎オムライス事件」のようだ。
前にも書いたが、小学校2年の夏休み、母の故郷長崎に連れて行かれた。
その時、母より1歳年下の叔母さんの家にも行ったのだが、
そこで僕は、生まれて初めてそれを食べたのだ。
いつも家で食べているオムレツと違って、実にソフトな口あたりで、
トマトケチャップの微かな酸味と、黄色い卵との彩りにすっかり僕は魅せられた。
第一、スプーンを使うから、オムレツのようにお箸でつかんで口に運ぶ途中で
ミンチとタマネギの具がポロポロこぼれるようなことがない。
僕は一緒に食べている同い年の従兄弟の正之に「これ、美味しいね。なんていうの?」ときいた。
それまでにも、チャンポンや皿うどんなど、次々登場する長崎特有の料理が気に入っていたから、
これも、てっきり地元の料理なんだろうと思ったのだ。
そこに叔母が「正敏ちゃんオムライス知らないの?」と口を出したから、話はややこしくなった。
生まれてから、ずっとライバルのような姉妹は、
ここでもそれぞれの家庭での食文化について一戦交えそうな不穏な形勢となった。
正之もそれを察知してか、
「僕は、オムレツの方が好きなのに、妹たちの言うことばかりお母さんは聞く」と話を切り替えてくれた。
すかさず母が、「うちの伯父ちゃんと正之ちゃんは一緒ね」と言いその場は事なきを得た。
大阪という大都会で暮らす姉のサラリーマン家庭と、
長崎で、病院経営している妹の裕福な家庭の間には、
周囲も含めて、なにかにつけ新しいライバルの関係にあったのだろう。
二人は晩年、何かあるとお互いに連絡しあい
双方が軽い認知症になってからは、気をつけていないと何度も繰り返し電話しあい、
尋常じゃない電話代に周囲を驚かせることまであったのだが。
ともあれ、それから僕は、母の「暮らしの手帖」の愛読者になって、
オムライスばかりでなく、いろいろな料理を母にチャレンジするように働きかけたが、
「そんなに食べたいのなら、自分でやんなさい」というので、母の作戦どおり厨房に入るようになった。
それでも、我が家の食卓には、父と母のオムレツと弟と僕のオムライスがのるようになった。
そして、正之と僕とはあの夏以来、従兄弟というより、親友になった。

母が遺したこと(6) 2012.03.05
僕が初めてデモを体験したのは、東京オリンピックの開かれた年、高校2年秋だった。
さすがに母にも言わず、小学校以来の友人Kと二人で環7沿いでヒッチハイクして、横須賀に向かった。
アメリカの原子力潜水艦の寄港阻止がスローガンだった。
軽自動車に乗った気のいい小父さんが僕らを乗せてくれた。
横須賀まで何をしにいくのか?というので、デモを見に行くというと、
京浜急行の大森海岸駅まで運んでくれて、
「見るだけだぞ、全学連に巻き込まれないようにな」と釘をさされた。
「全学連になっちゃダメだぞ」ともいわれた。
数年前、アメリカ大統領の訪日を中止に追い込んだ大学生の運動組織「ZENGAKUREN」は、
海外の辞書にも載るほど、知名度があった。
だから、普通の市民でもその名を知っていた。
高校生らしく学生服で、「はいっ」と答えたが、心の裡では、デモをしてみたくてたまらなかった。
「デモというものがあって、学生はいつもその先頭で、警官隊とぶっつかるものなのだ」
ということを知ったのは、中学1年生の時、1960年、日米安保条約反対闘争からだ。
そこではひとりの女子学生が殺されていた。
その年、韓国では、李承晩政権を学生運動が退陣に追い込んでいた。
64年、韓国では、日韓基本条約は日本による新たな植民地化だと学生が反対していた。
それに、ベトナム戦争を日本の米軍基地が支えていて、このままでいくと、
いつか再び戦争になるという危機感が、高校生にもあった。
8月15日に開かれた徹夜ティーチインのテレビ中継が、天皇制の話題になったら、
真夜中に突如打ち切られたりもして、なんだか不透明で鬱々とした世相の下で毎日を過ごしていたから、
脳天気な高校生は、パーッと発散したくなっていたのかもしれない。
しかし、初めてのデモ体験は散々だった。
横須賀中央駅から集合場所の公園に着くと、もう集会は終わったのか、
林立する旗を先頭に歩いていくデモ隊は、どう見ても、「動員された」大人たちの動きだった。
基地のゲートに向かった隊列はいつのまにか、
警官隊の壁に遮られて正面から大きく迂回させられているのに、
たいした抗議もせずに「原潜の寄港は、許さないぞー」と唱えるだけ。
見物人や通行人も、警察の規制で遠くに追いやられていた。
ただ、「デモの権利を行使した」という事実だけが残るような仕組みになっているのだ。
「焼香デモ」と呼ぶらしいことは後で知ったが、いかにもやる気のない大集団の歩行移動という印象だった。
それにひきかえ、少数だったが、学生の集団は、「原潜粉砕、寄港阻止」を繰り返しながら、
ジグザグと駆け足で大きく蛇行して、ゲートをめざして機動隊の壁に
なんどもぶつかるパワフルな動きをみせていた。
後年、学生デモの象徴になったヘルメットを被っているのは前の2~3列だけ、
アノラックや、ジャンパーを着ている人も少なく、男子のほとんどは、学生服。
女子はスカート姿が多かった。
ヘルメットといえば、60年の時に完全装備の警官の警棒で頭を割られ負傷する学生が多くなり、
「頭を使う学生こそが、ヘルメットを被って防御すべし」などと、東大の教師が発言したことがあった。
あまり、レベルの高い物言いとは思えないが、だからかどうか、
機動隊と直接ぶつかる学生部隊の前列から、だんだんヘルメット姿が増えていった。
ともあれ、二つの対照的なデモを見比べてKと僕が学生の隊列の後ろに付いてすぐ、
周囲の街灯が消え、警察車両からのサーチライトと警告が、デモ隊を追いかける。
「ご通行中のみなさま、こちらは神奈川県警の広報車です。
ただいま、デモ隊の一部が道路交通法に違反して、不法なジグザグデモを行っております。
この状態が続くようであれば、警察はやむをえず規制を開始します。
学生デモを指揮している○○君、ただちに正常なデモ行進に戻りなさい」
そのうち、予告どおり規制が始まった。
暗闇の中から、「ドスドス、ボコボコ」という音が近づいてくる。
米軍基地のゲートへの道沿いに、ガソリンスタンドがあって、当然、店は閉まっていたが、
そのフェンスに押しつけられた僕は身体を動かそうにもどうともならないうちに、
がーんと一発、後ろから首のあたりを殴られた。
どーっと逃げる人の動きに巻き込まれてなにがなんだか分からないうちに
気がつくとKとも合流して京浜急行に乗っていた。
首のあたりに手をやると幸い傷は負っていないようだが、しびれたような感じだった。
夜中近くに家に着きそのまま布団にもぐり込んだのだが、明け方、首が痛くて目を覚ました。
なんだか廻らない。鏡で確かめると、片方が青く内出血して大きくはれていた。
仕方なく母に、昨日のことを白状して、病院に行った。
学生服のカラーの上から殴られたため、まだダメージが少なかったらしい。
それでも、学生服の襟はとめられなかった。
医者と父には、学科だった剣道で、当たり所が悪くてということで言い逃れた。
この理由は、母が考えてくれた。
このことがあってから、僕たちは物見遊山気分でデモに行くことをしなくなった。
何のために傷つくかもしれないデモに行かなくてはならないのかを考えるようになった。
そして、僕はデモに行くときは、母には必ず伝えることにした。
母は「怪我のないように、気をつけなさいよ」とは言ったが、賛成も反対もしなかった。
が、僕がデモに行った夜は、たいてい起きて待っていてくれた。

母が遺したこと(5) 2012.01.31
僕たちは、「ベビーブーム世代」と呼ばれていた。
昭和22年4月から、25年3月までの3年間に生まれた連中のことだ。
後に、同世代の杉田二郎の唄で『戦争を知らない子どもたち』と呼ばれたり、
堺屋太一によって「団塊の世代」と名付けられたりもするが、
いつもだんご状態で捉えられる「たちの存在」だった。
この急激な出生増は、大戦終了後の世界的な現象だったようだ。
1学年上は、僕たちの6~7割ぐらいの人数でとても少なかった。
よく、戦前の日本では、「産めよ、増やせよ」の合い言葉で、
子づくりが奨励されていたという話がいわれているが、
母によるとそれは、戦争が有利に進んでいた頃のはなしで、
負けがこんできた「国家総動員体制」施行下では、「進め一億火の玉だ」の合い言葉でも解るように、
銃後の要員として役に立たない妊婦は肩身の狭い立場だったそうだ。
勝手な話だ。
1年上の人たちと違って、「たち」の連中は、
小学校の頃から1クラス50~60人はあたりまえ、すし詰め教室といわれていた。
中学ではそれ以上の人数で、11クラスK組まであった。
当然にも、教室も足りずに仮設のところもあったし、
プールも体育館も、PTA会費の積立金増収の結果、
僕たちが卒業してから立派なものができあがるケースが多かった。
それでも当時の親たちは、せっせとPTA会費を納めたし、ベルマークを集めて学校用具の充実に協力した。
子どもの教育に熱心という面もあったかもしれないが、
彼らが担ってきた戦後復興の勢いが、教育環境の整備にも向かったからだろうと僕は思う。
それに、競争率の高い世代のわりに、自分の子どもだけでなく、
『たち』全体を見て物を言っている様子がうかがえた。
「高校全入運動」なんていう動きも僕たちの親世代が始めたことだ。
母もバザーや廃品回収などで、学級文庫を揃えたり、花壇を整備するようなことをしていた。
狭い学校の校庭で遊び足りない僕たちは放課後、近くの古墳あとの公園に寄り道して、
三角ベース(テニスの軟球を手のひらで打ち、2つのベースを回ってホームに還れば1点という略式野球)
や、Sケン(地面に水で大きなSを描いて字の内側をそれぞれの陣地としてお互いに相手の陣地深くに
守られた宝物の石を取り合う団体戦。S字の外はけんけんでしか移動できない)で遊んだり、
発掘ごっこなどをしていた。
僕が小学校2~3年生の頃は、テレビがある家は少なく、男の子の遊びといえばアウトドアにあった。
そんな中で、あろうことか僕は週に一度ピアノのお稽古をさせられていた。
恥ずかしかった。友だちに知られたくなかった。
最初の頃、先生が来る土曜日は、半ドンで給食が無かったから、
家で昼ご飯を食べなくてはならないのをいいことに、
逃げるように帰ってチャラチャラとおさらいして、
レッスンが始まったら教わっている間に誰も友だちが来ないようにひたすら祈っていた。
どうしてそんなことになったのか。
クラシック音楽が好きで、独学でピアノを弾き、戦場にまで楽譜を携えていった父が、
子どもには正式にピアノを習わせたかったからなのだ。
僕にとっては迷惑な話で、当時の子どものつきあいの世界では、「おんなおとこ」の存在だった。
小学校高学年になったら、家にうんと遅く帰ったりして、すっぽかし、母を困らせもした。
しかし母は、娘時代、仕舞や弓道を習ったりはしたが、
クラシック音楽はまったく解らないと言って父と僕との紛争には未介入の姿勢を貫きとおした。
本当のところどう思っていたのかは、訊きそびれてしまった。
母は僕や弟の勉強や遊びについてほとんどうるさく言わなかった。
どちらかといえば、それは、父の役割だと割り切っていた。
母がこだわったのは、人に対する態度。
例えば、僕が何気なく「○○ちゃんは、頭が良くない」なんていおうものなら、
「あんたは、どれくらい頭が良いの?」なんて切り返された。
当時大阪の社会では、在日朝鮮人や未解放部落の人たちについて
平気で差別的な言葉が使われることが多かった。
PTAの会合などで、そんな場面にでくわして
「みんな同じ母として、人の子の親として理解しあうべきだ」というようなことを
提言したこともあったらしい。
「それで、岩永さんは、変わったはるなんて言う人もいたけど、
なかには、私もその通りと思うと言ってくれる人もいた」と笑っていた。
そうした母の姿勢に10代中盤の僕は多大な影響を受けて育った。

母が遺したこと(4) 2011.12.28
戦争の悲惨な結果を見た人たちは、そのままみんな反戦主義になるか、といえばそうではない。
ある人は、突き詰めて言うと、負け戦をしたからダメで、勝てば良かったのだ、という。
また、最近はあまり聞かなくなったが、領土や、利権を争う植民地主義戦争はダメだけど、
政治的独立をめざす、民族解放の立場からの戦争はやるしかない、という人もいる。
フランスや、アメリカに対するべトナム民族の長い戦いが、それだといえる。
しかし、いずれにせよ人が人を殺したり、傷つけたりすることには変わりない。
特に、20世紀になってからは、戦場での兵士の戦いだけではなく、
相手国の非戦闘員や生産力にできるだけ大きなダメージを与え、
戦争続行能力を断つことが目標になった。
そこで、原子爆弾の登場となる。
この原子力エネルギーの利用については、H.G.ウェルズが20世紀初頭、
空想小説「解放された世界」にも描いていたころから、兵器化が各国の軍事的な課題だったらしく、
アメリカだけでなく、ナチスドイツも日本も開発しようとしていたらしい。
21世紀になっても、アメリカのイラク侵攻の理由が、「大量破壊兵器の保有」にあったように、
この「悪魔の発明」は広島以来人類全体の首枷となってきた。
皮肉なことに、核兵器は、「持つと使わないようになるから、戦争を抑止できる」という倒錯した論理で
保有数の競争が今なお進んでいる。
そんな世の中で人生の後半を過ごした僕の母は、
「私は、身体の被爆はなかったけど、心に被爆した」といっていた。
そして、原爆投下の事態を生んだ原因と思えるものや、ことには、明らかに不信感を表した。
一貫して「平和」は「非戦・非暴力」からしか生まれないものだという考えだった。
だから、「戦争はダメ。暴力は絶対にダメ」となり、オモチャの刀や、ピストルはうちでは御法度だった。
たまに、近所の友だちとチャンバラしているところを母に見つかろうものなら、後でこっぴどく怒られた。
あれだけの犠牲を払ったのに、また、警察予備隊、保安隊、自衛隊などと、
恐るおそる呼び名を変えながら再軍備をすすめる日本のありかたには危惧をしていたし、
「一流国」とか、「大国」などと、自称したがるこの国の「発展」には、
「いつか来た道」という言葉で、心配していた。
僕が、高校生になって、デモに参加していることがばれた時も、
「未成年」だの、「違法なことはするな」などといろいろ言った父と違って、
母は「けがしないように気をつけなさい」の一言だった。
「結局、若い人たちが兵隊にひっぱられるのだから、当事者として意見を表明するのは、あたりまえ」
というのが母の言い分だった。
1950年の朝鮮戦争からはじまって、1960年代、世界では、米ソの核の均衡による冷戦時代から、
少しずつホットな戦争が起こり始めていた。
キューバ革命をめぐる米ソのかけひき、ベルリンの壁、中印国境紛争、
なかでも、アメリカがフランスの肩代わりでべトナムに乗り出していった「ベトナム戦争」は、
在日米軍基地が大きく絡むこととして、マスメディアでも大きく扱われ、
高校生の僕にとっても身近に感じられることだった。
学校教育では、「期待される人間像」などという基準が検討され、
「手には技術を、心には日の丸を」なんて言う標語が云々されだした。
当時、僕の家は、世田谷の北沢にあった。
うちは、父の勤め先の社宅だったが、周囲は大きなお屋敷ばかりで、
総理大臣佐藤栄作の私邸も物々しい警備に囲まれてその中にあった。
あの頃は東京でも結構雪が降った。
そんな時、母は「立ち番のお巡りさんがかわいそうだ」といって、本気で心配し、
後日「佐藤さんの家はちゃんと暖をとるようにしてあげているらしい」という話を
出入りの八百屋のおばさんから聞き出して、安心していたりしたこともあった。
当時の僕たちにとっては、警察官は、権力の手先であり、
直接的には、対抗する暴力としてしか考えられなかったが、
母の感覚はもう少し柔らかなものだった。
当時の反体制側の人たちが、警官を「イヌ」とか、「税金どろぼう」と呼ぶ感性を嫌った。
いま思うと、あの頃の母は、40歳そこそこの主婦だったのだ。

母が遺したこと(3) 2011.12.26
小学校2年の夏休み、僕と4歳の弟を連れて、母は長崎に里帰りをした。
当時僕たちは大阪の豊中市に住んでいた。
大阪駅から、蒸気機関車が引っぱる急行「西海号」は、
夜8時頃に発車して、山陽本線を走り、明け方まえに下関に。
そこで、関門トンネルをくぐるために、電気機関車につけかえて、
海の底を通って門司から九州にはいった。
汽車の窓には煤よけと通気のための網戸が付いていた。
長崎には、10日ほどいたので、市内まで出かけて行き平和祈念像や原爆記念館にも行った。
ボロボロに崩れた浦上の天主堂では、
レンガの壁の上から傷ついた聖像が見下ろしていたし、
ケロイドに覆われた身体の写真やキノコ雲など、
子どもとしては怖いものばかりだったが、僕が一番怖く感じたのは、
みんな11時2分で止まってしまっている時計群の前でされた母の説明だった。
「この時にたくさんの人が炎になって死んだのよ」
昼の11時2分に一斉に人が燃えて死ぬということが理解できなかった僕に、
母は原子爆弾によってもたらされたいろいろな死を語ってくれた。
その時にきっと10年ほど前の彼女の体験も教えてくれたのだと思う。
僕が前庭の池で、鯉や鮒の釣りあそびを、祖父からいくら誘われてもしなくなってしまって、
母の話が原因だということをつきとめた祖父母に、
「まだ、子どもなのだから」と母が叱られていたのを思い出す。
僕が寝入った頃に始めたらしいが、母の反論の涙声に目が覚めた。
「原子爆弾」「水素爆弾」「放射能」という言葉は少し前、1954年の春、ラジオ放送が教えてくれた。
第五福竜丸という焼津の漁船が、ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験による死の灰を浴び、
乗組員が重症になるということが起きたのだった。
それから半年後、僕は、ラジオで毎晩、伝えられる
「くぼやまあいきち」さんの容態が気にかかって仕方がなかったのを覚えている。
まだ、日本の多くが、広島や長崎の惨状をなまなましく記憶していた時代だ。
たくさんの放射能マグロが埋められる光景も写真で見た。
そんなこともあって、母は母なりに危機感を抱いて、
自分の体験を僕たちの世代に伝えようと試みたのだと思う。
「どんなことがあっても絶対に戦争だけは始めてはだめ」というのが母の口癖だった。
鉄砲や、刀のおもちゃは我が家では出入り禁止だった。
僕の家は、父が厳格ともいえる教育至上主義者で、
母は父との間に立って僕たちをかばってくれる存在だったが、
こと戦争の話になると母の主張に妥協は無かった。
父は、従軍者の大半が犠牲になったインパール作戦の途中で、負傷して助かったひとりだったが、
軍隊時代を懐かしむ言動でも見せようものなら、すぐに始まる母の口撃にへきえきしていた。
僕が小学生になるあたりの頃の話だが、ある晩遅く、人が訪ねてきた。
応対に出た父と玄関でなにやら大声で話している。男は「少尉殿!」を連発している。
やがて父は、居間のタンスから出した金を包んで男に渡したらしい。
男が帰ってから、訝しがる母と、
顔は覚えてはいないが確かにその名前の兵隊は部下だったのだから、
困っているのを見過ごせないと弁解する父との論争は、夜中まで続いた。
後に、戦友会から、「なりすまし詐欺に注意」という回状がきて、
「少尉殿」も面目まるつぶれだったらしい。
かといって、母が平和運動に加わるということはなかった。
その辺が面白くて、普通の市民がしっかりすることが大事で、
普通の市民は生活をちゃんと立てて、とりたてて運動はしないかわりに、
大事と思った運動を支えることは惜しみなくすべし、というのが持論だった。
「お父さんの言うように選挙にいってれば良いというものでもない」
やがて、僕が学生運動を始めてからは、
母のこの姿勢が僕や仲間の活動を支えてくれることになった。

母が遺したこと(2) 2011.12.15
21歳の夏、母が体験した強烈なできごとは、
僕が子どものころから何度も聞かされてきたので今もよく覚えている。
その頃、母は朝夕、祖父の病院を手伝うかたわら、
昼間は近くの農業会の事務所に勤労奉仕に行っていた。
その日、空襲警報が解除になって、やれやれとみんなそろそろ昼ご飯の仕度に入った頃、
母は自宅に戻って昼ご飯を食べようと洗面所で顔を洗っていたそうだ。
その時、目の前の鏡が稲光を発したように光って、一瞬目が見えなくなったという。
何が起こったのかわからないまま建物の外に飛び出した。
他の人たちもそこで、呆然とした顔でいたが、やがて熱風が吹きよせ
遠くから地面を震わすような低い音が伝わってきた。
母は、雲仙岳が噴火したのかと思ったそうだが、農業会の幹部の人が、
「造船所が『新型爆弾』にやられたのだろう、3日前に呉も同じ爆弾にやられたらしいから」
と言ったそうだ。
事実、その日長崎市の上空で、
太陽の表面温度の熱を発して炸裂したアメリカのプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」は、
長崎市民24万人の60%の死傷者を生み出し、3分の1の建物を瓦礫と変えた。
しかし、そんなことは後に分かったことだ。
それまではこの戦争で、さほど怖い目に遭ったことがなかった当時の母は、
高空を飛ぶB29の編隊にも「キラキラしててとってもきれい」などと、
友だちと言い合う程度の「銃後の民」でしかなかった。
それがこの時から一変し、それからが地獄だったと母は言う。
やがて、長崎の方から、トラックの荷台に満載されて運ばれてきたのは、
うめき声だけが生きている証とでもいうような状態の人々。
そのほとんどが衣服がちりちりになって、肌にくっついているだけのありさまで、
みんな煤けたような顔をゆがめて、どうぶつの鳴き声に近い声でうめいていたそうだ。
小さな病院の中はすぐにいっぱいになり、
前庭に筵やござを敷いて収容しようとしたがそれでも間に合わず、
道ばたに寝かせられた人も多かったと言う。
前庭には、小さな池がある。
みんなその水を飲もうとして這っていって、こときれたそうだ。
手当といっても充分な薬があるわけでもない。
とにかく、何でも油分をつけて火傷のダメージを軽くするぐらいしかなくて、
それも塗った皮膚がベロッと剥がれてしまうことが多かった。
長崎からのトラックは、つぎつぎにくるので、
母は道に出て、「ここはもういっぱい」と断る役をまかされたそうだ。
祖父母にすれば、若い娘にこんな残虐な光景を
それ以上見せたくなかったんじゃないか?と母は言っていた。
しかし、延々と続く負傷者をつんだ車に断りを言う役もなかなかつらかったはずだ。
戦場の兵士ならまだしも、なんの罪もない市民が
こんな地獄に落とされる理不尽さを、21歳の母は噛みしめたという。
涙も出なかったし、数日は、ご飯も食べなかったそうだ。
道ばたに立ってしばらくしたら、長崎の方から馬に曳かれた荷車が通りかかったそうだ。
荷台に負傷者が寝かされているのは変わらないが、
それを曳く馬も大火傷をしているようでよろよろと進んでいったそうだ。
対州馬というずんぐりした馬はねばり強いという話は聞いていたが、人間の起こした戦争で、
そんな状態になった馬にまで残酷な仕打ちをすることになってしまったんだ。と母は語っていた。

母が遺したこと(1) 2011.12.12
前回の第12回「藁谷豊に会った」を書いたのが10月初旬だから、2か月以上のごぶさたになってしまった。
10月6日に母が逝って葬儀やなにやかやで落ち着かなかったせいもある。
喪主になることが、儀式の中心に座らされるばかりでなく、「次は俺か……」などと、
おざなりながら覚悟をさせられるのだなぁなんていうことをぼんやり考えていたら、
あっという間に四十九日の法要も過ぎて、時間が経ってしまった。
このコーナーは、今、63歳の僕がこれまで出会って影響をうけた人たちとのことを
勝手に回想するつもりで始めたのだが、まさか、二人目が身内の話になるとは思わなかった。
しかも、僕の人生で、いちばん最初に出会った母のことになるとは。
ともあれ、少し楽屋オチめくだろうが、なるべく手短に述べることにするので、おつきあいください。
僕は、母が24歳のときに生まれた。
今なら若いお母さんの部類に入るだろうが、当時は普通だったようだ。
彼女は、長崎県の大村湾沿いの東彼杵郡千綿村に医者の父、産婆を母に、
長女として1924年(大正13年)に生まれた。
地域でたったひとりのお医者さんとお産婆さんは、
どちらも忙しい商売だっただろうに、
年子の妹はじめ、5人の兄弟姉妹がつぎつぎとできたため、
母は佐賀で旅館をしていた父方の伯母の家に小学校に行くまでの間、
預けられた。
そこには、母と同い年の従妹がいたため、
伯母のえこひいきに泣いたそうだ。
「お母さんが縫ってくれたかわいい着物をお父さんが持ってきてくれても
私が着るのはその日だけで、翌日からはちゃっかりTちゃんのタンスにはいってるのよ」
そのころの話になると母はいつも悔しそうな口ぶりになった。
母の苦労話は、小学生になって実家に戻ってからも続く。
今度は、長く不在だった長姉は、実家に戻っても兄弟姉妹の輪に入りきれなかったそうだ。
昔のことだから、子どもの躾、特に女の子へのそれは厳しかったようで、例えば、
「ご飯をいただくときは、両脇の内側に卵を挟んでいると思って落とさないように振る舞え」
なんて言われ、何かにつけ、おまえは長女だからと人一倍厳しくいわれたそうで、
母にすれば、ひとつ違いの妹となぜ扱いがこんなに違うのか悩んだという。
時代は、軍事国家にまっしぐらというころで、
男権至上主義がますますはばをきかせている世の中にあって、
10代の多感な少女は、優しくて好きだった親戚のお兄ちゃんが徴兵されて戦死したことから
初めて戦争というものを身近に感じたそうだ。
そのうち、炭鉱などから脱走した朝鮮人が、
追いつめられて海沿いを走る大村線に飛び込み自殺をすることが頻繁に起こり始める。
検死にかりだされた父親がそんな晩は、へべれけに酔っぱらう光景を見ることになる。
大人になりたくないと思ったそうだ。
しかし、母は当時の女性にしては大柄なほうで、
女学校に入ったころから、診療の手伝いをしはじめていたそうで、
何でもありの田舎の病院では、血を見ても動じない母の存在は重宝したようだ。
その頃から母はようやく長女としての貫禄を身につけたらしい。
しかし、母が心底から戦争の悲惨さを味わったのは、21の歳、
1945年8月9日、長崎の市街の上で、原子爆弾が炸裂し、
多くの犠牲者が長崎から運びこまれるということが起こってからだった。

藁谷豊に会った(12:最終回) 2011.10.07
市民活動における、藁ちゃんのオーガナイザーとしての才能には、
目を見張るものがあったが、一方、彼は会社をあくまでも「ワークショップ」たらんとした。
社員ではなく、メンバー。社長じゃなくリーダー。
常に流動的なプロジェクトの結びつきを模索していた。
彼の口ぐせだった「民主主義」は「メンバーの自律と協慟」のうえに成立するものだった。
バブル経済の崩壊直後、20世紀の最終コーナーから、21世紀スタートの時期の11年に、
ワークショップ・ミューが、ソーシャルプランナー藁谷豊を軸足として、
多くの人と結び、さまざまなジャンルに展開できたのは、
こうした思想をベースに、シームレスなネットワークをめざしたからだ。
直線的で上昇型のモデルではない、曲線的で併走型の動きが、
いくつもの渦となって、ワークショップ・ミューのまわりに磁場を作った。
こうした藁ちゃんの活躍の先には、新しい時代のヴィジョンが現れてくるはずだった。
2003年、4月15日の明けがた、藁ちゃんは、旅立った。
とてもユニークな設計図をたくさん僕たちに残して。
それは、これまで述べたような市民活動の領域や、参加型イベントの企画はもとより、
教育やCSRの分野、映像や、活字による表現活動の範囲にもおよんでいる。
彼の残したホーム・ページの「わらがい日記」(2002年2月)が葬儀のしおりに引用されている。
そこには、藁ちゃん自らの活動の根拠がこう紹介されている。
私は1954年生まれ、団塊の世代のすぐ下、団塊ぶらさがりといわれる世代である。
この私たち世代に表現者が多い。
というのは、団塊の世代がそれまでの既成概念すべてを破壊してしまったからだ。
ところが、彼らは破壊したまま、
旧態依然とした日本社会に自らを組み込んでいってしまった。
既成の概念を破壊しつつも、既成のシステムまでも破壊できなかった彼らは、
結局は既成システムに飲み込まれていくしかなかった。
何はともあれ、私の前には彼らが作り出した概念の焼け野原があった。
それは希望という道を切り開く可能性を残していった。
そのお陰で、私たちは既成概念に縛られない自由な発想を持つという自由さを獲得できた。
もうひとつ、彼らが残した功績に、運動と組織の不毛性を私たちに提示したことがある。
運動と組織からは新しい地平を切り開くことはできない。
彼らの敗北は、私にとっての夢と希望となった。
それならば、運動と組織という呪縛から離れたところで、踏ん張ってみよう。
ひとりでできることのラディカルさを追求してみよう。
掘って、掘って、掘って……たどり着いたところが、表現するということだった。
彼がここで批判する団塊の世代に属する僕としては、反論したい部分も無くはないが、
そんなことはどうでもいいと思いなおすほど、強烈な印象で迫ってくるのが、
目の前の概念の焼け野原に「希望への可能性」や「自由な発想の獲得」を見出すと言い切り、
「ひとりでできることのラディカルさ」をめざすといっていることだ。
とかく群れたがる団塊世代へのアイロニーとも受け取れる表現だが、
敢えて言葉どおり受けとめよう。僕の言い訳などなんの力にもならない……。
そして、藁ちゃんはその言葉どおり、
「運動」の波に乗せられることなく、「組織」という枠にこだわらず、縛られない姿勢を保って、
あまりにも短い後半生を最期まで走り抜けていった。
2003年5月7日、東京・千駄ヶ谷の日本青年館で、
友人たちにより「藁谷豊を偲ぶ会」がもたれた。
(了)

藁谷豊に会った(11) 2011.09.15
2003年3月12日のミーティングには、博覧会協会OBや代理店の人も出席していた。
前の年の暮れ以来体調を崩していた藁ちゃんも退院したとはいえ、闘病生活継続中。
心不全の治療で1カ月前から入院中の僕も病院を抜け出してその中にいた。
二子玉川駅ビルの昼食時の喧噪の中、流れは藁ちゃんがリードした。
市民組織でも、NPOでもなく、代理店側にも、博覧会協会にもつかない、
まさに「環境を考えるプランナーの会」だからこそ立てるポジションだった。
藁ちゃんは彼の持論、「(この国において)単なる『消費者』や『生活者』の範疇に収まらない
『市民』の誕生によるオルターナティブな社会の実現」へのプロセスとして、愛知万博を捉え直し、
萩原さんの戦略を立体化して見せてくれた。
それにしても、開幕までにあと2年。
その間に、市民組織を立ち上げて、県民・市民への働きかけから、
協会の各事業や、出展国との関係づくり、協力企業集めまで。
やるべきことを挙げるのは簡単だが、いざ実行となると、
どの立場から見ても腰が引けてしまうような話だ。
実際、2002年から、とりあえず引き受けてくれていた代理店は
2003年の秋にはギブアップしたし、その後を引き受けてくれた別の代理店も、
他の仕事と違ってこのプロジェクトばかりは、お荷物だったはずだ。
なにしろ、これまで協力者、悪く言えば下請けでしかなかった市民組織が、
博覧会協会と同等の位置で、代理店の立場からはクライアント扱いになるなんて前代未聞のことなのだ。
それでも、会議の結論は、「ともかく、前例は無いのだから、仮決めした手順に沿って、
何でも検討・試行を繰り返してみよう。実現の糸口を掴んだら、
互いに力を合わせて可能な限り最短でできる形をつくろう」という藁ちゃんらしく、
前向きなものになったのだった。
たった2時間半の会議だったが、この日藁ちゃんは、雄弁だったし、
いつにもまして、説得力ある発言が目立った。
後で思うと、あれは彼の遺言だったのか。
「私たち人間は、近代合理主義的な古い体質を持った社会から、
真に地球と人間が調和され、自由と平等な民主主義が確立され、
人間ひとりひとりが個性ある存在として自律できるような社会に向けて歩み始めている」
という彼の信念を僕たちに確認させてくれたのかもしれない。
そして、彼が示してくれたロードマップの通りではなかったが、
この時の会議から、愛知万博の市民参加に「もうひとつのかたち」が産声をあげ、
前例のない広がりを見せ始めたのだった。
2003年の秋、名古屋の萩原喜之さんを代表に、
NPO法人「エコデザイン市民社会フォーラム」が発足し、博覧会協会と協働することになった。
このNPOの理事には、市民以外に、複数の代理店やプロダクションのメンバーも個人として参加した。
2005年3月から9月までの6カ月の会期中に、会場内にオープンした「EXPOエコマネー・センター」を訪れ、ポイントの発行をうけたり、交換をした利用者は延べ60万人に達した。
ポイントをICチップ内蔵の入場券に貯める方式によって会場ばかりでなく、愛知県内のスーパー、コンビニでもレジ袋辞退にエコマネーのポイントを付けることができた。
貯まったポイントは、エコ商品との交換や、植樹への寄付など、エコライフ実践の機会を提供した。
博覧会閉幕後、「エコデザイン市民社会フォーラム」は、
博覧会幹部にも個人として理事に加わってもらって、
活動を拡げ、公共交通機関の利用や、
環境学習に参加してもポイントが付くようになった。
施設も、名古屋のターミナル金山駅に
エコマネー・センターが移っただけでなく、
名古屋市内、豊田市内の環境学習施設などにも設けられている。
イベントなどへの出張も多く、今なお年間15万人以上が活動を継続している。
しかし、藁ちゃんが、愛知万博でのこうした市民の自律的活動展開のプロセスを見ることはなかった。
2003年の3月末、なんとか退院した僕と入れ替わりに、
藁ちゃんは再入院したまま病院から戻ってこなかった。

藁谷豊に会った(10) 2011.09.05
愛知万博をきっかけに、国際博覧会を21世紀型のイベントに変身させなくては、というミッションは、
パリに本拠を置く博覧会国際事務局(BIE)はじめ、
当時、世界中の万博関係者が抱いていた危機感だったようだ。
第1回の「ロンドン大博覧会」が開かれたのは、1851年、なんとヴィクトリア朝のころ。
目覚まし時計や、インドのダイアが展示品で630万もの人が有料入場したという。
もちろん、日本は、まだ夜明け前の徳川末期、翌々年にペリーが浦賀にやってくる。
そんな頃に万国博覧会の骨格は組み立てられたわけで、そうとう旧い体質をもった国際イベントといえる。
20世紀の前半までは、帝国とその植民地の偉容を誇る場として、
第二次世界大戦後は、先進国資本主義社会の豊かさのショーケースといった開催目的が
21世紀を目前にして、焦点を定めにくくなってきていた。
各国で、住民の反対から、開催中止や候補辞退と言った状況が生まれていた。
そこで、2000年のハノーバー万博では、
博覧会会場内でBIE主催による国際シンポジウム「LEGACY OF EXPOs(国際博覧会の成果)」が、
1967年、モントリオール万博から、各回の主催者と開催地域行政の担当者たちをパネリストとして招き、
150年続いてきた万博の歴史的総括とともに、今日の世界における博覧会の開催意義を再確認した。
つまり、万博における「ビフォーアフター」の検証をやってみようというわけだ。
その上に、愛知万博を位置づけてみせるというのがBIEのシナリオだった。
しかし、当初、開発型の構想だった愛知万博側にすれば、
そういう曰く因縁つきのポジションを与えられたら、テーマだって簡単には言い表せない。
大阪万博が「人類の進歩と調和」と楽天的にもスッキリしたテーマだったのに比べて、
愛知は、メインテーマが、「自然の叡智」。
続いて3つのサブテーマ「宇宙、生命と情報」「人生の“わざ”と知恵」「循環型社会」で、1セット。
これだけじゃ万博のテーマに見えないかもしれないと、
ポスターなどコミュニケーション・ツールには、「地球大交流」という無難な言葉も加えられた。
21世紀型の国際イベントを標榜する愛知万博は、
当然にも「市民参加」が軸のひとつとして考えられていたが、
前述のように、テーマに明確化されていたわけではない。
日本各地で開かれてきたジャパンEXPOでもそうだったし、さかのぼればずっとそうだったのだが、
行政という立場から見ると「市民」というやつはとても扱いにくい存在で、
ある時は、安上がりな下請けとして重宝する人たちかと思えば、
突然豹変して、納税者の顔で、説明を求めたりする。油断できない人たちなのだ。
そんな人たちを下手に組み入れると、後で苦労する可能性が高いので、
これまで、たいていは、つかず離れずの場所に祭ってきた。
しかし、「循環型社会」にしろ、「人生の“わざ”と知恵」にせよ、市民が主役として動かなくては始まらない。
この課題は、開催予定地の自然環境保全のようにメディアに登場し、
話題になる機会は少なかったが、博覧会協会や行政セクターにとっては、
建前と本音のはざまが最もある問題であり、そのギャップを誰が、どう埋めるかが、課題だった。
長年、市民参加のかたちを摸索してきた僕たちとしては、
この機会に市民の側から乗り越える道を探すしかない。
これまでのように「参加」のお膳立てをしてもらってから、やおら腰を上げるのではなく、
主体としてのロードマップを持って、いち早く見晴らしの良い場所に陣地を確保するのだ。
その課題の一つが愛知万博における「エコ・バリュー」の導入だった。
2002年の後半から、博覧会で「環境・地域通貨」を流通させようというプランが語られ始めた。
1999年NHKで放映されたドイツのファンタジー作家ミヒャエル・エンデのお金に関するメッセージを伝えるドキュメンタリー番組『エンデの遺言』の与えた衝撃が背景にあった。
エンデは、パンを買うのに使う金と、株式取引などで、利潤を生み出す資本として使われる金は、異なる種類のものだという。
これを分けないと、地域の生活通貨は、国際的な投資通貨の波に呑み込まれてしまい、先進国の投下資本が利潤を上げるために、途上国と自国の貧困層の資源、環境、人件費にしわよせをする結果を生む。
逆に切り離すことによって、暮らしに関わる金の集積は、地域の暮らしのための投資として、持続可能な社会づくりに役立てることができるというものだ。
その後、2008年のリーマン・ショックがこのエンデの警告が正しかったことを証明する。
ともあれ、2002年の時点では、この博覧会の目玉の企画に、
さまざまなNPOや、プランナーが代理店と組んでチャレンジすることになった。
藁ちゃんと僕もA社とB社に分かれてそれぞれ企画した。
ただ、二人ともこれを実現するには、
NPO法人中部リサイクル運動市民の会の萩原喜之さんを中心とした愛知県民、
名古屋市民たちの力で実現するしかないと思っていた。
そして、どちらかの案が通ったならば、一緒にやろうと話していた。
結果は、提出されたどの案も通らなかった。
募集した博覧会協会も、応募した代理店の側も、
「県民・市民」の位置づけをどうとるかがあいまいで、決めかねたのだった。
しかし、萩原さんは、明快な意見を持っていた。
要するに、「誰が遣い手なのか」「誰が通貨を選ぶのか」を考えれば、
最もプリミティブな生活者=県民・市民が主役でしかなく、
行政や、企業というセクターもそうした生活者によって認められ、
支えられて構成されたものでしかない、というのだ。
したがって、博覧会協会と市民組織が共同で企画し、
実現に必要な社会組織、企業、行政には一緒に働きかける関係を作ろうと呼びかけた。
2003年3月12日、そうした呼びかけに呼応したNPOのメンバーやプランナーが集まった。
『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』 河邑厚徳+グループ現代(NHK出版 2000年)

藁谷豊に会った(9) 2011.08.17
愛知・名古屋という地名は、オリンピック開催地に立候補して、敗れるなど、
どこか二番煎じを追っかけているような印象がある。
2005年の万博にチャレンジすると聞いたときは、
1970年の大阪万博があったのにね、と思う人も多くいたはずだ。
それに、これだけ世界の交通が発達し、どこへでも行け、
宇宙中継や、インターネットの普及が、人々の物や事に対する好奇心を変質させ、
みんな「知らないことなど無い」ような気持ちになっている。
つまり、「150年前にできた万博なんかに出かけて、見たり知ったりするような暇は無い」というわけだ。
確かにハノーバーの不入りもそういう理由だったのかもしれない。
これまでの開催地域の多くは、先進国で、
未開発エリアの整備か、旧市街の再開発を目的としてきた。
先進国でなければ、そうした投資はできない。
実際、「竹の万博」として招致されたフィリピンのマニラ万博は、途中で、断念された事実がある。
愛知はどうか、当初、閉幕後は大規模な住宅地になる予定だった会場予定地に、
さまざまな自然の資産があることがわかり、開発すべきでないという意見が県民・市民に拡がった。
結局、既に公園として作られた所を本会場とし、自然の地形を活かしたサブ会場には、
コントロールが可能な政府館や愛知県館だけ置き二つの会場をロープウェイで結ぶことになった。
ただ、2003年の春に亡くなった藁ちゃんは、この万博の会場を見ることができなかった。
しかし、彼は、愛知万博の場を使って、市民の自律的な活動を保証する
新たな社会セクターを創り上げる機会としたいと、いつも語っていた。
「この規模のイベントはしばらく無いでしょう。
環境問題に限らず、さまざまな局面でのパラダイムシフトのチャンスですよ。
原則的な視点は必要だけど、柔軟な対応をしなくちゃ意味が無い。
僕たちにオルタナティブなプランが作れないなら、こっちの負けですからね」
彼のこの考えは、地元名古屋の萩原喜之さんとの連繋によって具体化の方向に向かい始めた。
萩原さんは、名古屋市のゴミ減量を市民の手で実現するなど、
社会課題の具体的解決を市民の力で図る名人だ。
彼の中部リサイクル運動市民の会とは、環境を考えるプランナーの会として、1999年から2000年にかけて「環境コミュニケーション」をテーマに共同作業を続けてきた。
その過程で僕たちは、環境問題の解決が、それのみでは成り立たず、他の問題も含めた複眼的な戦略のなかで、しかも紆余曲折でしか前進しないということを学んだ。
1972年、ローマクラブによって提言された「成長の限界」や、
ストックホルムで開かれた、国連の「人間環境会議」から30年経っているにも拘わらず、COP3で決議された京都議定書の批准でも世界の足並みが揃わないことにみんな危惧感を抱いていた。
政治が機能不全に陥っているということだ。だから、
「NO」をつきつけることが「正しさの証明」だということになった。
発行日:2000年4月25日
発行:中部リサイクル運動市民の会
この構図を、僕は、全共闘の典型的な闘い方として、体験している。
藁ちゃんと萩原さんは、僕とは5~8歳離れているから、もっと、自由に柔らかい発想に立つ。
藁ちゃんの「オルタナティブ」は代案の代案までを読み込んだものだったし、
萩原さんの実践的な活動によって生まれた選択は、常に可能性の側から光を当てたものだった。
つまり、二人とも壊れた政治の手法に頼らず、市民としての乗り越えかたを志向していた。
このチームに万博で「環境通貨を使った社会実験」の課題がなげかけられた。

藁谷豊に会った(8) 2011.08.01
3つのエリアでのジャパン・エキスポが開かれる前年、
2000年には、北ドイツのハノーバーで、万博が開かれた。
「環境」をメインテーマに据えた最初の国際博覧会というふれ込みで、
2005年の愛知万博にとっては、格好のお手本になる催しのはずだった。
早々とみんな出かけていった。
ところが、帰った人の話を聞くと、「それほどでもない、期待はずれ」という話が多かった。
その理由を尋ねると、やはり、環境というテーマを万博というお祭りの軸にし、
大衆の理解を得るイベントに仕立てるには難しすぎるという。
だから、入場者数も伸びないし、出展も低調だというのだ。
しかし、その一方で、従来は国や企業が専有していた
パビリオンの正式出展に国際NGOのZERIが進出するなど、変化の兆しも現れているという話だ。
行ってみると、話は嘘じゃなかった。
オープン3カ月後でも、ハノーバー・メッセの会場は空いていたし、
ZERIのパビリオンは、資金不足とかで半分の出来。
他にもまだ完成してないと思えるパビリオンもあった。
が、おかげで、見たいものが見られたし、苦労なしに行きたいところに行くことができた。
飛行機で隣に座った人に万博の事を訊くと、
「やっているのは知っているけど、バカンスは、
イタリアに行くから帰ってきてまだやっていれば行くかもしれない」
と落ち着いたものだし、ホテルのスタッフも、タクシーの運転手も、
「いつもよりは、少し忙しいかもしれない。見やすい時期に来れて、あなたはラッキー」
といったぐあいだった。
みんな、日常生活の中から万博を眺めている。
来場者数にこだわり、国家の威信に関わるといって、頑張る日本や中国とはどうも感覚が違うようだ。
その意味では、聞いた話は、本当でもないわけだ。
ドイツから戻って、藁ちゃんとそのことを話した。
既に環境先進都市フライブルクにも行っていた彼は、
「余裕ですね。ドイツじゃ環境問題は、展示やイベントのレベルじゃないんですよ。
みんなずっと前から日常で具体化のプロセスを体験しているわけですから。
外国人はともかく、ドイツ人には見に行くものじゃないのかもしれないですね」という。
確かに「日本政府館」に飾られていたアートともテクノロジーとも呼べない、
和紙で作られた自動車らしき展示物を見て「環境」をまだ、
「製品とイメージ」でしか語っていない日本のレベルに赤面を覚えた。
そのことを言うと、藁ちゃんは、
「岩永さん、今度の地方博が終わったら、
その経験も含めて、社会化のための大戦略を立てましょう。
2005年の愛知万博は、見せ物じゃ済まないし、ドイツには追いつかないけど、
せめて、社会実験としては成功させないと、僕たちが関わる意味が無いですからね」
と笑いながら言いきった。

藁谷豊に会った(7) 2011.07.15
その昔、まだ蒸気機関車が客車を引っ張って全国を走っていた頃、
そこだけは電気機関車につなぎ代えて走った関門トンネルをくぐり、九州に渡ると、
やたらと広い敷地の八幡製鉄所のへりを列車は走った。
「これが、日本で一番大きな会社だ」という父の解説を聞きながら、
いつまでも続く工場の光景に驚いた経験があった。
北九州博覧祭の会場はその八幡製鉄
(後に、富士製鉄と合併して、「新日本製鐵」になり、もっと巨大になった)の
跡地にできたテーマパーク「スペースワールド」の隣で開かれた。
藁ちゃんが手がけた「北九州市環境ミュージアム」は、博覧祭で、
2001年7月にプレオープンし、翌2002年春からグランドオープンするという息の長い恒久施設となった。
そこは、巨大工場のある町の例に漏れず、
産業城下町としての経済活動と、大気・水質汚染をはじめ、
さまざまな「公害」の下に暮らす市民生活環境とのせめぎ合いがあった。
当然、行政も内部で二極化するなかでの合意点を見つけ、外に説明のつく立脚点をつくる必要がある。
僕たちにしてもそれまでの、企業や行政の環境セクションや、
教育セクションから依頼された仕事をこなすのとは、次元が異なる。
つきつめると、その地域の施政方針づくりにつながる話だ。
この難しい課題を抱えた藁ちゃんは、かねてからの主張である
「市民参加によるボランティアグループにイニシアティブをわたす形」で乗り越えを図った。
その頃の彼の口癖は、「民主主義のちゃんとした実現」だった。
それまで、僕たちの力不足で中途半端なレベルに終わってしまった
「自律的に動く事のできる市民ボランティア」が育つことにより、
生活者視点からの合意形成を実現する……
その地に暮らす市民が自分や、家族の暮らしのために、役所や、他人まかせにせず、
自分で感じ、自分の考えを伝え、自力を使って行動する。
そのセンスとエネルギーを一つひとつの課題について撚り合わせることが出来れば、
世の中は良い方へ舵を切ることが出来る。
深夜、互いに情報や、意見の交換をするなかで
藁ちゃんの確信が固まっていくのが、僕にはわかった。
一方、僕が関わった山口きらら博では、
「明治維新以来のイベント」という笑い話も出たように、
都市化した北九州と異なり、一次産業を基盤とした地域のコミュニティーを壊さない形で、
利害調整を進めながら、合意にたどり着く必要があった。
一例を挙げれば、山口県の職員たちの活躍だ。
もちろん山口でも、県民参加を標榜していたし、
運営要員の大半は、県民によるボランティア体制が組まれた。
しかし、驚いたことに、それらのボランティアの先頭に、
県庁の人や、保健婦さんや、学校の先生たちがいつもいた。
それに、僕たちが担当していた運営マネージメントの仕事までも積極的に手伝い、こなしてくれた。
当初、形だけの参加ではむしろじゃまになって困るな、と思っていたのだが、それは、杞憂だった。
お国柄なのかもしれないが、実にまじめに、誠実な参加が多く見られた。
数年後、愛知万博の県民参加の事業を担当したとき、職員の積極参加を求めたら、県の担当者に「山口とは違う」と言われて、苦笑してしまったが、普通は、
あまりあてにならないのが、イベントでのお役人たちなのだ。そのかわり、さまざまな県内の組織や機関に根回しをしておかないとスムーズに事が進まないのが山口だった。
僕にとっては、市民参加や県民参加という仕組みが、一筋縄ではいかないことを教わった、貴重な経験だった。
藁ちゃんの「北九州市環境ミュージアム」での市民参加によるインタープリター養成は、
博覧祭後も続けられ、2年近い研修で日常運営を担える活動レベルに成長した。
博覧祭後の市民参加メンバーのお世話をしたのは、
山口で、ボランティアのフォロアーとして、仕切ってくれたワークショップミュー出身の黒岩淳さん。
僕たちと、藁ちゃんたちの相互扶助関係は海峡と時を越えて続いた。

藁谷豊に会った(6) 2011.06.30
2001年の夏に、北九州市、山口県、福島県の3つの自治体が
それぞれ主催する3つのジャパン・エキスポが開かれた。
ジャパン・エキスポとは、万国博覧会などの「国際博」と対置して、
「地方博」と業界では呼ばれるらしく(なんかあまり良い分類名じゃない)、
そうした「地方」に、「中央」から通産省(経産省)の役人と、広告代理店と、
企画や制作のプロダクションなんかが出稼ぎ(?)に行く。
現地は、役所と議会が張り切るだけで、肝心の現地の人材は、会期中の運営要員を賄うだけの、
なにやらODAに似た構造だなと思った。
……しかし、3カ所同時開催ということは、それまで無かった。
この3カ所、それぞれ旧藩名で呼べば、小倉、長州、会津となり、
いずれも明治維新以来の因縁浅からぬ地同士だったため、
21世紀に入った時点での「手打ち」なのだなんて、解釈してみせてくれる人もいた。
ともあれ、2001年の夏、3つの博覧会が、お客を取り合う戦いが繰り広げられることになった。
しかも、4年後には、国際博である愛知万博が控えており、
それぞれ代理店は、ここが腕の見せ所とばかり、力をいれた前哨戦を開始したのだった。
実は、僕は、博覧会なるものを経験したことが無かった。
仕事としてばかりか、客としても行ったことが無かった。
1970年、万博史上最大の6400万人が入場した大阪万博のころは、学生運動で忙しかったし、
だいいち万博なんて、日米安保条約改定の政治的な動きから
人々の目をそらすためのイベントなんじゃないか……と思っていた。
だからといって、70年当時、関西のべ平連が中心になって企画した
「はんぱく〔反戦万博〕」なんていうカリカチュアには、つきあいきれなかった。
そんな僕が、山口きらら博の環境・農林の分野に関わったのは、関心をもっていた、「県民参加」を前提としていたからであり、なによりも藁ちゃんが、既に北九州博覧祭のコンペの発注を請けていて、僕に山口県の分について代打指名があったからだ。
もちろん、それぞれ、代理店によるプレゼンテーション・コンペがあって、受注業者が決まるわけだが、
幸運にも僕たちは、二人とも「合格」して、関門海峡を挟んで競合することになった。
スペースワールドに設けられた北九州博覧祭は、「響きあう人・まち・技術」、工業都市的なテーマ。
かたや山口きらら博は、阿知須干拓地で「いのち燦(きら)めく未来へ」、
農林水産業の地らしいテーマだった。
今もそう思うが、あの頃藁ちゃんと会うと必ず話したのは、
あんな狭いエリアで張り合うのではなく、共催するなどもっと方法が無いのか?
特に自然環境の観点から言えば、1時間内で行き来できる二つの開催地に
そう大きな違いは無い。
つまり、違いを生んだのは、人間によって作り出された産業の方向であり、
それに合わせた行政の施策だった。
学ぶべきは、2つのエリアが比較できるようにして、
同じ環境圏に在っても人の作用によって、こうも異なった場になってしまう……
ということを考える機会として博覧会をつかうべきじゃないか?
……「それにしても、地球の歴史46億年のうち、たった130年でこう変えてしまう。恐ろしいことだよね」
いつも藁ちゃんの口からそんな言葉が聞かれた。

藁谷豊に会った(5) 2011.06.22
1997年の東京国際フォーラムのオープニングから、
2001年の3つのジャパンエキスポが開かれるまでの4年間、藁ちゃんと僕はそれぞれ他流試合に励んだ。
もちろん、環境をテーマにしたドキュメンタリーTV番組のプロモーションイベント
「素敵な宇宙船地球号~お茶の水博士の春休み環境創造ファクトリー」(1999年4月)や
静岡県による広大なプレイパーク「富士山こどもの国開園記念イベント」(1999年4月~5月)、
凸版印刷を軸に、通販、飲食チェーン、大学など複数の企業による
研究と発表のコラボレーション・プロジェクト
「環境コミュニケーション展2000」(2000年10月~12月)など、一緒に取り組んだものもあったが、
藁ちゃんは、その間に、本を一冊(『学びの時代へ~地球市民への学び・30人の現場』=小学館刊)と、
「Satoyama21−里山から考える21世紀」、「企業人のためのボランティア・アクション・プロジェクト」
などのムーブメントを立ち上げた。
それに、横浜・鶴見に東京ガスの「環境エネルギー館」という大規模な展示施設をオープンさせている。
なかでも、『学びの時代へ』は、現行の公教育と企業教育中心の
この国の人育てシステムに対置するオルタナティブな
「学び」構築のための足場を担っている30人の考えと行動を
集約した労作だ。今思うと、その線上に、「里山~」も「企業人~」、
「環境エネルギー館」も位置している。
そして、
「取材を通じて一番感じたことは、掲げている“表札”はそれぞれ違っていても、『みな同じことをやっている』ということです。環境教育、人権教育、開発教育、国際理解教育……。
たとえば環境からアプローチしている人も、やればやるほど人権や平和の問題などが複雑に絡み合っているということを認識しているのです。逆に、いろいろな名前のついた教育をやっていることが、とてもいいなと感じました。(中略)さまざまな教育の表札が『おなじもの』にならないことは、とても重要だと思います」
と語っている。
今日では、それら、さまざまな名前をもった教育を総称して
“ESD(Education for Sustainable Development)=持続可能な開発のための教育”と呼ばれ、
2005年日本の提起により、国連・ユネスコの10年計画の1テーマになっている。
そして、このさまざまな「教育」から発したベクトルが、どんな「未来社会」をめざし、
重なって像をつくるのかを現実社会のなかでシミュレートするのが、
21世紀を迎えた藁ちゃんと僕たちの課題となった。

藁谷豊に会った(4) 2011.05.30
1997年東京国際フォーラムのオープニングの総括をした小冊子、
「環太平洋21生活文化フォーラム FINAL REPORT」の座談会「~エンドマークからのスタート」で、
藁ちゃんは、こういっている。
「もうシンポジウムの時代は終ったなという気がすごくした。
(中略)そうするとシンポジウムのオルタナティブってなんだろう。
インターネットで誰でも自由に話ができる時代に、その場に立って話をすることは、
何の意味があるんだろう。(中略)その解決にはまだ時間がかかると思っていますが」
このFINAL REPORTは、主催者が発行した報告書などではなく、
僕たち「環境を考えるプランナーの会」が自前で作って、200部ほど関係者に配った「反省書」。
クライアントやスポンサーなどに気兼ねして、発言を控えるような媒体ではない。
藁ちゃんは続けて、
「(シンポジウムに)聴衆が何をしにくるかというと、やはり空気だと思うんですね。
空気をつかみたい、そこでなにもしゃべらなくてもいいけれども、参加しているという実感がある。
それに、対応する施設が,あまりにも日本にない。
50人、100人単位の空気感が伝わるような施設が、これから日本で増えてくると、
いろんなことがやりやすくなると思う」
「シンポジウムという従来型の、発信側と受信側がいるという構造からは、
ボランティアという考え方はでてこないし、
参加性という点では、ゲストも参加者なんだということが、次の時代のキーワードになってくる。
そうするとボランティアも立派な参加者で、
ボランティアとスタッフと一般参加者とゲスト参加者というところに、
初めて共時性と共感がうまれて、皆で楽しくできたね、というものになってくるんだと思います。
ボランティアという言葉もそろそろ考えなきゃいけない気が私もしますけど、
本当に自分の自発、という言葉に立ち返ったときに、
そこで楽しめ、共感を得られるのかということが、シンポジウムではなかなか難しいんだろうな。
今回フォーラムという名前をせっかくつけたのだから、
もうちょっとフォーラム化すればよかったという反省は、かなりありますね」
それまでのシンポジウムの多くは、学識経験者などを柱に、
アカデミックに広げたフロシキの上にシロートにも分かりやすいだろうと、
薄めた内容をテレビでよく見るタレントなども絡ませて、
飽きの来ない時間で終るというのが、多かった。
要するに、テレビ番組の焼きなおし風の実演版だ。
僕たちは、6日間毎日4~5時間をかけて話し、
テーマの共有と発展のために、翌日には前日の論点を整理したニュースを発行した。
また、うち4日間は夕方から和太鼓奏者・林英哲さんのナビゲートによる、
「環太平洋21サウンドセッション~インプレッション」が続く。
ロジカルな時とセンシュアルな空間の目一杯のくみあわせで、
それまでのシンポジウムを乗り越え、より広場化(フォーラム化)しようとしたのだが、
それでも満足できる結果にはならなかった。
今思えば肩に力が入りすぎだったのかもしれない。
いずれにせよ、僕たちは、次のチャンスを狙うことにし、
そのために、思ったことの要点ををみなFINL REPORTにした。
そして次の機会は4年後にやってきた。

藁谷豊に会った(3) 2011.05.15
「環太平洋21生活文化フォーラム」は、
~太平洋が育てたコスモロジーとライフデザイン~という副題によって僕たちの視点を示した。
この切り口は、総合コーディネイターを引き受けてくれた文化人類学者・竹村真一さんのものだ。
竹村さんは、
陸上中心の発想から、
あらゆる生命の基盤である「水」からの視点を中心にすえた文明デザインへ。
国家や民族の差異より、
一人ひとりの内在する多様性とネットワークを資源として進化する社会へ。
定住と所有のパラダイム、巨大化と過当競争の経済から、
柔らかく共振する「縁」の経済、ボランタリーな「贈与」と「共有」のセンスに価値をおく、
ホロニックな“友愛の経済”へ。
と、このプロジェクトの目指すテーマを規定した。15年前のことだ。
当時から竹村さんは、学問の枠組みにとらわれることなく、
多面的に発信する俊英として、嘱望される存在だった。
藁ちゃんの主張であるボランティアの積極的な取り込みは、
この竹村さんのテーゼ2と3にも関わっている。
当時、議論になったのは、
ボランティアの問題とは、その主体の問題だけでなく、それを受け容れる側、
つまり社会機関や世の中のシステムの方の問題も大きいんじゃないかということだ。
冬の福井県三国町の海岸で、
打ち寄せる重油をすくう作業をしていた5人のボランティアが過労が原因で亡くなってしまった。
また、タンカーから漏れた重油は、日本海沿岸全体に及んで打ち寄せていたが、
マスメディアがクローズアップした三国町にだけボランティアが殺到して、混乱した。
市民の自発的な行動という面だけを賞賛していたマスメディアの報道は、
それがきっかけで、急ブレーキがかかった。
災害時に市民ボランティアの自発性は貴重だが、参加側も、受け容れ側も、
それぞれ不慣れなまま臨めば、こうした悲劇が起きる可能性があるということだ。
では、市民と、社会機関の自律性を保証しながらの協業はどう育てられるのか?
それには、擬似的な形態からでも、小規模レベルからでも、
同じ目標をもったコラボレートの経験を重ねることで、
その距離感と協業感覚を身につけていくことしかない。
そうした感覚を持つことが、マスメディアの煽りに踊らされることなく、
自分に無理を強いることの無いボランティア活動に繋がることじゃないか?
イベントへの参加が、そうした感覚を磨いていく場として、役に立つはずだと僕たちは思った。
それまで、「社会奉仕活動」という名で、「世のため、ひとのため」だった活動が、
初めて「私のため」を軸に語られ始めた阪神淡路大震災から、16年。
僕のこの思いは、今日、東日本大震災でのボランティアの状況を聞いても変わることは無い。


藁谷豊に会った(2) 2011.04.30
1995年の震災の経験は、それ以後僕たちがイベントを考える際の前提条件を変えた。
特に博覧会のような一定の空間に人や事物・物資が集められ、
そこでなにかを起こす企画の場合、その状況は、擬似的な都市空間とも呼べる場になる。
イベントは、当然祝祭的な側面を持つ場だが、
一方、日常ではありえないことが起こる時でもある。
だからこそ面白いのだが、だからこそヤバイと思う場面に遭遇することもある。
日常でも都市空間で人の多く集まるところには、リスクが潜んでいる。
震災などの混乱時にそれが表面化し、相互作用でパニックが生まれることもある。
オウム真理教の地下鉄サリン事件もあって、僕たちは一層その思いを強くした。
1997年1月。
有楽町の都庁跡地に、ホールと会議室、展示場の複合施設・東京国際フォーラムができた。
オープニング記念事業の一週間をまかされた僕たち「環境を考えるプランナーの会」は、
その企画の中心に、江戸前の海から発想して「環太平洋」という言葉をおいた。
太平洋地域は、火山帯がぐるっと取り囲んでいる環で、
イコール地震帯として、絶えず変動している地帯。
そして、その中の島々も含め台風などの過酷な気象条件に晒されている所でもある。
ところが、この地域には、モノを贈りあう「共助」、「共生」と「贈与」の文化が根づいてきた。
おそらく、豊かな海が育んだものであり、
もうひとつには、国境などと違って、人間の力関係では変えられない、
自然が境界を定める海辺と島の環境がつくりだしたものだろう。
21世紀を目前にしたこの時、僕たちはこの環太平洋の生活文化こそが、
次の世紀の文化的な基軸のひとつに置かれるべきと考えた。
陸地からではなく、生命を生んだ海からの視点を持つこと。
東京湾=江戸前の海を臨む東京の1997年は、
そうした生活文化発祥の地のひとつとして発信すべきタイミングと考えた。
もう一つ、このイベントで僕たちがどうしても手がけてみたかったのは、
こうしたイベントをボランティアの人たちと一緒に創るということだった。
藁ちゃんの提案だった。
阪神・淡路大震災、日本海でのタンカー“ナホトカ号”の重油流出事故など、
緊急時にはボランティアの活躍する姿が見られるようにはなっていた。
こうした自発的な市民の行動をイベントの場でも活かすことができないか、
そして、その積み重ねから日常的な生活の中でも、非常事態でも、
自律的に動く市民ボランティアのシステムを作り上げていけないだろうか…
藁ちゃんが力説したのはこういうことだった。
結局、この時の「環太平洋21生活文化フォーラム」では、
自発的なボランティア志願者に、一定の報酬を支払う形、
今でいう有償ボランティアの実現までしか至らなかった。
まだ、金を払わないことには、仕事の責任も要求できないというのが、主催者側見解の時代だった。


藁谷豊に会った(1) 2011.04.15
僕がいくつで、藁ちゃんがいくつの頃かは明確には覚えていない。
たぶん、店舗設計とやらいうものに興味を持っていた頃だから、
僕が36~37歳、彼が30歳そこそこかな。
その頃、彼は日赤通りのなかほどにあったマンハッタンベイビーズという
カウンターバーの内装を終えたばかり。
東急ハンズのリニューアルについての企画会議の後、
彼と飯島ツトム君とに誘われて、そこに立ち寄った。
ふたりと初対面だった僕は、彼らの話しがおもしろくて、ついて行ったのかもしれない。
ふたりとも、それまで僕が付き合ってきた内装のプランナーや設計士とは違って、
話の中に完成形がなくて、常にもうひとつの案を探すための彷徨が続き、循環した。
ひとつの結論に満足するのではなく、オルタナティブな何かを見つける。
三人のとりとめない会話から、やがて、環境を考えるプランナーの会がスタートした。
いろいろな事をやった。
大きな公共施設のオープニングや博覧会の企画から、
中止になった「人とイルカのすてきな未来」という小さな集まりまで。
いつも、プランは真夜中から明け方に誕生して、その日の朝からお披露目ということが多かった。
「人とイルカ~」が中止になったのは、1995年1月、阪神・淡路大震災が起こったからだった。
あの日僕は、朝早くの新幹線で東京から神戸に向かう予定で、早朝起きてテレビをつけると、
真っ黒な煙とチロチロとした炎が画面いっぱいに拡がっていた。
とっさに、藁ちゃんに電話しようと
神戸の彼の止宿先の三の宮のホテルを呼び出そうとしたが、もう、通じなかった。
僕は、焦った。
どう見てもただごとじゃない。
彼が主宰していたワークショップミューのメンバーの自宅は知らなかった。
昼前、やっとミューに連絡がとれて、間もなく藁ちゃんからも連絡があった。
「いやぁ、すごいことになってるみたいですね」
まるで、人ごとだ。
「いま? 太地。昼に岩永さんと合流すればいいので、昨日千刈から、こっちに来たんですよ」
なーんだ、と一先ず安心したが、
後で聞くと彼が僕を待つために一泊する予定だった神戸のホテルは倒壊したそうだ。
この、対岸から震災の地を望んだ彼の経験が、
その後の彼のプランのベースになったと僕は信じている。
藁谷豊(1954年~2003年)4月15日。八年前の今朝、彼は亡くなった。
